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nothing is Blue 制作日誌1
この文章は2002年1月26日にnothing is Blue を製作した1998年10月から1999年5月のことを振り返りながら書いたものです。
前作GEOREは役者が見つからないことや、拙い英語で書かれた1時間もの室内劇の脚本など、あまりに無理が重なったためやむなく製作中止を決断した。98年の夏のことである。
2月から8月までの努力が報われなかったのは悔しかったが、そんな状況でもなんとか「プレビュー」を作り上げ友人たちにある程度の感嘆の声を上げさせたことは、楽観主義の僕にとっては次の作品への充分な原動力となっていた。
僕は早速、次回作の執筆にあたった。前作がダークコメーディーを目指していたため今回はピュアーなラブストーリを撮りたかった。このとき、僕の頭にあったビジュアルイメージは透明感のある映像だった。例えていうなら、岩井俊二や北野武(久石譲の音楽?)的映像であった。そして、演出としてのコンセプトは「恋愛における感情の共有」。つまり、観客に「あー、そういうのあるある。」とか「分かるよ。その気持ち」とか言わせたいのだ。
そこで、今回は構成などは考えず(というか当時は構成などもともと考えていなかった)思いつく感情をそのまま日本語で紙に書いてみた。そして、それを千葉大樹がシーンごとに1ページのルーズリーフノートを使い英語で書いていった。(この時は、もう自分で英語で書く気が失せていた)。このように書くと、あとで紙を並べながらシーンを削ったり足したり、また順番を変えることができて便利なのだ。当時は、この方法の便利さを自分で発明したと感動していたが、後に脚本の授業をとったら教えてくれた。(なーんだ、皆やっていたのか…)
結局、ストーリーはESLにおいて日本人の生徒が他の国のクラスメイトに恋をするが告白できず、悩むという「片思い映画」になった。最初のプロットは「もし好きなクラスメイトがいるのに、ある日突然先生に『Xさんが昨夜、交通事故で亡くなりました』と言われたらどうするか?日本ならば葬式に行くとか色々あるが、文化も違うクラスメイトが急に死んだ場合、家庭環境も文化もなにも知らないのに何かできるのか?」というようなものだった。この発想はESL(英語を母国としない留学生のための英語のクラス)を受けた留学生ならではの発想で日本にいると理解しづらいかもしれない。日本で言うとさしずめ、「いつも同じ電車に乗る女の子に片思いして、その子の死を急に知った状態」みたいなものだろうか?それが、なぜか死ぬ前までを中心としたストーリーになったのは、きっと僕がその片思いの相手を死なせたくなかったからだろう….ってこれじゃー、まるで自分の恋愛日記を映画化しただけではないか?!しかも、リアルタイムで…。
まー、そんな感じで何とか脚本は書き終わり僕と主役兼ADの千葉大樹を中心に映画とはあまり関係ない友人たちを2−3人スタッフに代わる代わる巻き込んで撮影を始めようとした。しかし、大樹演ずるアキが片思いする女の子を演じる女性が土壇場で降板。金髪でヨーロッパからの留学生を想定して代役を探すが結局見つからない。またもや、役者のために製作中止か?
いや、プレビュー作って「製作中止」の文字使って受けをとるのは1回のみである。そんなことでは映画監督失格だ。悩んだ挙句、ついに1つのアイデアを思いつく。それは「片思いの相手を写さない」というものであった。かのスピルバーグも長編デビュー作「激突」においてトラックの運転手を1度も写さないことによってその不気味さを表現した(なんて、当時「激突」なんて見てなかったんだけどね)。僕も、「片思いの女性」の顔を写さないことでその神秘性を表現しようとしたのだ。
nothing is Blue 制作日誌2
今、落ち着いて考えてみると役者が見つからなかったのも当たり前と言えば当たり前だ。あの頃、僕らが行っていたキャスティングの方法は、バックステージウエストに告知を出してオーディションを行うなんてものではなかった。僕らがやっていたのは、いわば「ナンパ」もしくは「キャッチセールス」のようなものだった。教室の前に座って、目の前を通るイメージに合いそうな学生に片っ端から声をかける。
「あのー僕ら、これから映画を撮るんですが出てもらえません?」
こんなことを、幼稚な英語で言いながら役者集めをしていたのだ。こんなので、引っかかるならこの場所はすでに「ナンパのメッカ」になっているところだ。しかし、なぜだか当時の僕らにはこの方法しか見つからなかった。
しかし、僕らは前回書いたような方法で撮影を進めた。このプロジェクトは学校の宿題でもなんでもない。従って期限も無い。だから、役者が見つからなければ延期すればよい。だが、僕らは自分達で決めた期限を頑なに守ろうとした。そうしなければ、自分達の作品は永遠に完成しないようにな気がしていた。
平日、休日関係なくクラスの合間を縫って僕らは撮影した。キャンパスのあらゆる場所を使って。殆どのシーンは大樹、一人なのでカメラ兼監督の僕がいれば撮影は続けられる。だから、ある意味楽だった。スケジュールと言うものに左右されることがないからだ。雨が降れば、大急ぎで大樹を呼び出す。お天気雨があっても同じ事。僕らは天気すらも強引に味方につけようとしていた。今考えてみると、僕はこの時、光の当たり方、雨、風、自然の動きなどを、いかにキャラクターの感情を描き出すために活用することができるか学んでいたのかもしれない。
ただ、全部が全部二人で撮影できるとは限らない。キラキラ輝くプールのシーンを撮るためには、最低1人アシスタントが必要だ。僕は友達を口説いて、手伝ってもらった。大樹の住むアパートのプールに夜中忍び込んだ。そして、家庭用ハロゲンライトを水面に映し込んだ。時は10月。ロサンゼルスというのは、夜になると夏でも肌寒い。それを、10月の深夜に、温水でもなんでもないプールに大樹を漬け込みながら撮影を慣行。光の角度が難しく、僕はファインダーを覗きながら照明の位置を正していく。大樹の唇がみるみる青くなる。ほとんど根性比べのこの撮影は結局2時間かかった。しかし、その甲斐あってかなり綺麗なシーンが撮れた。この結果には大樹も満足そうで、これなら頑張れる!と言った。
その後、1ヶ月に渡る試行錯誤の撮影は秋のキャンパスを丁寧に映像として納めていった。教室のシーンもESLの先生と生徒達に頼み込んでクラスを通常の半分の時間で終了させてもらい、残りの時間で撮影させてもらった。これも、20人近いエキストラを使った僕にとっては初めてのシーンとなった。制限時間30分の間にどれだけ、思い通りの絵が撮れるか?かなり強引だったが、テープを止めないというビデオ世代ならではの撮影でかなりの素材を撮る事ができた。
ヒロインがいないので、撮影不可能なシーンがでてくる。それを、様々なアイデアでカバーしながら撮影を続けた。偶然の産物だが、とても綺麗なシーンも撮れた。大変だが、満足していた。しかし、そう思っていたのはどうやら僕だけのようだった・・・。
あとは、取り直しのカットのみとなった11月。突然、夜中に大樹から電話が入った。「今から、うちに来てくれ。話がある」。大樹の珍しく真面目な声のトーンに僕は彼のアパートに向かった。
nothing is Blue 制作日誌3
「よく考えたんだけど、俺はこの作品から降りる」
僕が大樹のアパートに着き、コーヒーテーブルに向かいあって座ると彼はそう言った。
「俺はお前のやり方についていけない」
頭の中が真っ白になった。「なぜ?」そんな言葉だけが、浮かんだ。確かに、心当たりが無いわけではない。前回のGEORGEの撮影時もそうだったが、僕は映画の事となると人格が変わるらしい。それで、映画を手伝ってくれた人たちが、僕の周りから離れていくという経験はよくしていた。だけど、大樹は単なるお手伝いではない・・。一緒にやってきたはずなのに・・
その理由について、大樹がこの時説明したかどうか覚えてない。ただ、パニックになっていた。ただ、これは今でもそうだが、僕はパニックになっている時、その場で無茶苦茶に反論したり、暴れたり、喧嘩したりはしない。あの時も。「そうか・・」とだけ言ったような気がする。
「そうか・・」こう言って、静かに去ることだけが自分のプライドを保てる唯一の道だったような気がした。「腹立たしかった」けれど、それ以上に「淋しかった」。
撮り直しする必要のあるシーンや、大樹のナレーションなど、彼がいなくては成立しないシーンがいくつかあった。だから、一度電話した。「この映画は俺が完成させる。だから、ナレーションだけはやってくれ」しかし、彼はこの作品に関する全ての協力を断った。
悩んだ。この作品を再び制作中止にするのか?主演が降りてしまってはどうすることもできない。協力してくれた人には、そう言い分けするのか?それも、可能だろう。だって、不可能なものは不可能なのだから。皆、きっと分かってくれるはず・・
果たして、本当にそうなのだろうか?大樹の降板は、僕のせいというのもある。では、やはり僕の責任だ。いや、たとえ僕の責任云々よりもこの映画を完成させるために自分の時間を使ってくれたという事実に対して僕はどう責任を取れるのだろうか?そんな、思いが毎晩夢の中でグルグルと回転した。
そして、決意した。「一人でも完成させようと」
幸いなことに、大樹は降板したが彼のガールフレンドである美佳ちゃんは、この作品のために素敵な曲を作ってくれた。それを、現在ではプロデビューしてしまった今井大介さんがアレンジし、映画にピッタリの曲が完成した。他にも、音響など皆が協力してくれた。物語全体を説明するはずだった、大樹のナレーションも映像上では登場しないヒロインの視点に脚本を書き換え、女性の声で録音してもらった。
今、この作品を見ると確かに強引な手法をとっている個所が多く、ある意味アート的な作品になってしまっている。しかし、なんとか映画は完成した。しかし、僕はこの映画を「完成」だけに終わらせる気はさらさらなかった。
nothing is Blue 制作日誌4
映画は一人では製作できない。だから、皆に手伝ってもらう。もしくは、一緒に映画を作る。では、その僕と共に映画製作において時間を共有してくれた人たちに対して、僕はどう責任をとるべきなのか?この問いに対して、僕は考えていた。
そんな時、ある知り合いの言葉を思い出した。僕の通うオレンジコーストカレッジの留学生の中で人を巻き込んで映画製作をしようとしていた留学生は僕ともう一人いた。彼は、かなり大風呂敷を広げるタイプで、口癖は「俺の映画はスゲー!」だった。そんな彼が、「今度の作品を作った時は、そこら中に俺の映画のポスターが張ってあるぜ!」だった。まー、この時彼は冗談で言っていたのだが、僕はこの言葉を本気で受け取った。
「確かに個人の学生映画で宣伝をしてまで上映会をしている人たちはいない。」
そのことを考えたとき、僕にとって監督、プロデューサーとして自分の映画に関わった人たちに対してどう責任をとるか?という答えが出たような気がした。それが、「上映する」と言うことだった。
「上映する」これは、映画にとって当たり前のことだ。映画は通常、誰かに見せるために製作するのだ。しかし、学生映画にとってそれは必ずしも当たり前のことではないのだ。確かに、学生時代に撮った作品と言うのは予算はないし、技術も足りない。だから、完成してから少しでも時間が経つと誰にも見せたくなくなる。しかし、プロの映画製作者を目指そうとする人間が、そんなことでどうするのだ?
僕は、「協力者への責任」と「映画製作する意味」という2点を考えながら「自主上映」を決めたのだ。フォトショップでポスターを製作し、予算が無いながらもあらゆる手を使って大量のコピーを作った。そして、そのポスターを学校内の人が集まるあらゆる場所に張った。留学生はもちろん、ここの学生で自分の映画のためだけにこのような活動をする人間は今までいなかったようだ。
やるだけやった。後は当日を待つのみ。たった20分の映画のためにどれほどのお客さんが休みの日に学校に来てくれるのだろうか?上映会の前の日というのは、やはり心配なものである。
僕は中学、高校と文化祭で自主映画を上映してきたという経験があるが、毎年毎年、上映会近くなるとシアターに全くお客が入っておらず自分の映画だけが淋しく暗闇に映し出されている夢をよく見る。
それは、今回も同じ事だった。しかも、アメリカに来て初めての上映会なのだ。ただ、今回は僕には前日にやらなければいけないことがあった。「大樹を上映会に招待する電話」
キャンパス内のありとあらゆるところに、大樹の写真を使った巨大ポスターが貼ってあるため、もちろん大樹本人も日時など知っているし彼の友人に色々尋ねられているだろう。しかし、過程が過程だけに彼も招待しなければ出席しずらい。
電話嫌いの僕ではあるが、この時は電話した。「明日、来いよ」
当日、僕の心配をよそにお客さんは集まってくれた。総勢70人くらいだろうか・・・。その中には大樹もいた。
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